鬼ガ城の巨石伝説と地震についてまとめた 20.11.14
美鈴が丘団地は3〜4キロメートルしか離れていない己斐断層と五日市断層に挟まれ、己斐断層は千数百年前に、また五日市断層は700年から1200年の間にM6.5以上の活動があったことが判明しています。
当面地震が起きる確率は低いようですが、2007年3月、広島県がまとめた地震による最大被害の想定は次のようになっています。
地震名 地震の規模(マグニチュード) 死者数(人) 負傷者数(人)
己斐断層による地震 6.5 800 12、000
五日市断層による地震 7.0 3、400 19、000
廣島史話伝説安芸備後の巻に八畳岩は、地震で割れて二つになり、半分が落ちた伝説がありました。そこで落ちた小八畳岩を探していたところ、平成19年12月山頂直下徒歩2分の東斜面にその位置が確認できました。
1984年の広報みすずでは八畳岩は広島の人はおおはっちょう、こはっちょうと呼んでいたようです。
この場所は廃藩置県の際広島藩から国に引き継がれ、さらに西部開発に伴う運動公園整備に際し、昭和49年に広島市へ払い下げになり、現在は鬼ガ城緑地となっています。
戦後の国有林の時代は松茸の入札が行われていたそうです。田方の田口さんの話では、鬼ガ城山はうっそうと松の茂った山で、毎年松茸収穫のために、7,8人の人を雇い、たくさんの収穫があったそうです。しかし、松枯れに伴う松茸の不作とともに人が山に入らなくなり、道も通行不能となり、小八畳岩の存在が、すっかり忘れ去られていました。
また、昔、鬼ガ城山眼下の草津八幡宮鳥居付近まで海がせまり、草津港は力箭山で西風を防ぐことができ、天然の良港として、神武天皇が7年間広島に留まった際の船団基地であったと言われています。鬼ガ城山は草津港に入った際の正面に見える山です。神社の成立は平安時代で、それ以前、人々は岩や山をあがめていたことから、八畳岩は、磐坐(イワクラ)であったと考えられ、そのために神聖な場所として、一般の人が木を切れない場所になった可能性があります。
一方、地震で八畳岩が割れ落ちた伝説を参考に鬼が城山を観察すると、東側の海に面した面は深くえぐられており土石流災害の発生形跡とも考えられます。また、江戸時代の記録に、山津波(蛇抜け)が三輪明神の西の谷から古江中郷まで発生した記録があります。このように考えると、古江、草津地域では、海が山にせまり土地が少なく、毎日の生活に必要な燃料として、山の木を切りすぎたため山全体が丸裸になり、大地震とそれに引き続く大雨に伴う大災害が発生したのではないかと推察されます。そのようなことから、八畳岩で村の安全と平和を祈るとともに、防災への教訓として、木を切らない地域としての取り決めとしたのでないでしょうか。芸藩通誌の地図では、鬼ガ城山と鈴ガ峰が御建山また鬼ガ城から山田団地に通じる尾根の畠道尾山が留山として一般の人は木を切ることの出来ない山として記録されています。